日記

どうも、お久しぶりです。
といってもまだ一年経っていないのか、意外。
実は先週から久々の入院をしておりまして、仕事はやることたまっているのですが病室ではどうにもできず、まぁ暇なんですわ。検査の結果、まだまだ退院は出来ない。院内の仕事は先輩後輩に任せるにしても、院外の方々と共同でやってる学会発表の準備に穴を空けているのがどうしようもなく、不安で仕方がない。


で、入院あるあるなんですが、ベッドに横になってて頭に思い浮かぶのは昔の記憶。どうせなら産まれてからの記憶書き綴ろうかと思って、約一年ぶりにここに来ました。日記はもう書かないということでやめたんですけど、自己満足な自叙伝ということで。
では、


1987年2月25日
私は生まれました。母親はバスで自力で病院行ったと言っていたので、日中に生まれたのかな。くだらないことの記憶力が私は抜群にいいそうなんですが、1,2歳の記憶は全くないです。私の実家は昔金物屋をやっていた影響もあって、玄関が長いです。その長い玄関の先に長い暖簾があって、その先にリビングがあるんですけど、その暖簾に首を挟んで玄関越しに外を眺めている。それが私の最古の記憶です。そこから玄関の方に向かって歩いていくと曾祖母が店番で座っている。
祖母の部屋で祖母と一緒に遊んでいた。母の自転車の後ろに乗って母の職場まで付いていった。3歳までの記憶はこの程度ですが幼稚園に入園してからとごっちゃになっており時系列が曖昧。


1991〜1992年
4〜5歳
幼稚園。一年目(年少)の時は特に辛い記憶はないです。息子の保育園でもそうですが、全員にそれぞれ自分のマークがもらえんるですよ。私はグローブのマークでした。持ち物全てに名前とグローブの絵をマジックで母親が書いてくれてました。親になると分かりますが結構しんどいと思いますこれ。うちは嫁に全部やってもらってるんですけど。
初めての親友が出来ましたね。毎日のように遊んでいたと思います。
二年目(年長)の思い出があまり良いものではなく、なんかかなり厳しかったんですよ。今でも私は絵が下手なんですけど、絵が上手く書けないだけで相当怒られました。熊を書けという時間に、どう書いていいか分からず、隣の子をカンニングするような真似をして補修みたいなことさせられてました。あとスキップが出来なくて、出来ない子達だけをみんなの前で晒し者にするという今では考えられない授業も。
親友とも喧嘩したんですけど、喧嘩の内容が今思えば結構進んでるなーと思います。確か、授業に真面目に取り組んでいたかどうかみたいな議論で喧嘩してました。
この年代って、物を取ったとか引っ掻いたとかそのレベルの喧嘩が普通かなーと思うんですけど、、
とりあえず、そんなこんなで、幼稚園時代からすでに心にストレスを抱え込んでいました。


1993〜1998年
6〜12歳
小学校。幼稚園の同級生はほぼ全員同じ小学校に入学しました。親友とも仲良くしてましたが、ある時から、というか元々セーラームーンが好きとかで中性的な人だったのもあって、だんだん距離を置くようになり、三年生ぐらいの時に親の転勤で転校してしまいました。親同士は仲が良かったので未だに年賀状交換してるみたいです。今何してるんだったかな。
小学校1,2年生の頃はイジメがありました。暴力ではなく女子的なやつです。仲間外れみたいな。何度かその仲間外れの対象になってしまったことがあって、まぁ辛かったです。でも時間が解決して結局はみんな仲良くするんですけどね。
一年生の頃はとにかく人に物を聞くことが出来ない子でした。何かの授業で、図書室から本を借りたのですが、返し方が分からず、休み時間いつもその本を持って図書室に行き、ウロウロしてまたその本を持って帰ってくる。一週間以上繰り返してた気がします。
そういえば代本板ってのがありましたね。正式な手続きなんか踏まずに、代本板抜いて本入れればよかったんですけどね。あーその抜き取った代本板をどこに置くかでまた困るのか。めんどくせーガキですねほんま。
国語の本読みっていう宿題があったと思います。家で音読して、家の人に聞いてもらうっていう宿題。あれ、真面目にやってましたか?うちはかなり真面目でした。ある日、私が教科書を持って帰ってくるのを忘れた日がありました。そんな日、夜の8時ぐらいでしたが、親が車で小学校まで送ってくれました。教室はもう鍵がかかってて入れなかったのか、職員室にいた他のクラスの先生に本を借りて、自宅で音読しました。
本忘れて出来ませんでしたーでいいんではないのか?と思うんですが、こうやって育てられたせいで、めんどくさいくそ真面目な性格になったんだとも思います。感謝ですね。
物に対する執着心が出たのはこの頃でした。一年生の頃に姉と散歩していたら、市民グラウンドで防災のイベントのようなものをやっていました。消防車の梯子に乗せてもらったりいろんな体験が出来るイベントでした。その時、風船をプレゼントで貰ったんですよ。でそれを持ち帰って、何を思ったか姉は家の隣の駐車場で風船を使って遊び出しました。風船の紐の先に鉛筆を巻き付け重りにして、風船が飛んでいきそうで飛んでいかないギリギリのところで遊んでいたんです。で、当時から姉のやることは絶対真似しないと気がすまなかった私は真似をするんですが、鉛筆に紐をぐるぐる巻いただけだったので、当然ほどけて風船は空の彼方へ飛んでいってしまいました。あーあ、と。
姉は優しかったので、姉の分の風船を私にくれて、そのまま家に戻りました。
うん、この話だけだとよくある話だと思います。この日から毎晩、私は涙で枕を濡らすんですよ。風船に感情移入して。意味分かりませんよね。でもこれが半年ぐらい続くんですよ。親が寝静まった深夜に隠れて泣いていました。これがきっかけかどうか分かりませんけど、服にしろ鞄にしろ、長い間使ってしまいます。というか普通に使ってれば使えなくなることはないんですよ。使える状態のものが捨てられる、どこかに忘れられる、崖の下に落ちてしまう。そういうことがあると、どうも感情移入してしまう。まぁ今では泣くことはないですけど、気分がいいものではないんですよねー。
三年生になるとクラス替えがあり、新しい友人も出来ました。少年野球を始めたのもこの頃です。きっかけは覚えていないんですけど、体験で行ってみたら、小学校の同級生がたくさんいて、一緒にやりたいと思ったんでしょうね。1,2年生の頃から習い事はたくさんやらせてもらっていました。剣道、そろばん、習字、英語。これに加えて毎週土日に野球が加わったので、休日が全くなかったですね。学校から帰ってきたら習い事に行って、帰って来てご飯食べて風呂入って、学校の宿題が終わる頃には夜11時。二年生の頃は9時には寝てたんですけどねー。
四年生の頃、足を怪我して剣道を辞めることになりました。元々剣道は耳鼻科の先生に薦められてやっていたそうです。姉が二人ともスイミングスクールに通っていて、私も少しは通っていたそうですが泳げた記憶がないです。むしろスイミングのせいで鼻が悪くなったみたいなことを耳鼻科の先生に言われたそうで、それだったら剣道の方が、みたいな流れで。
なぁなぁでやっていた剣道ですが、最近上手くなってきたなと回りから誉められ自信も付いていた頃に辞めることになってなんか脱力しました。足の怪我は同時に野球も休まされることになり。約半年間ですが、まぁだらだらとした生活が続きます。

五年生
クラス替え。ここでまた親友が出来ます。お互いゲームが好きで、毎週のように彼の家に行って遊んでいました。自宅に呼んで自分の部屋に入れた最初で最後の友達だったかもしれません。
姉の学年もそうだったんですけど、高学年になるとクラスに三人、悪ガキが現れるんです。授業中立ち歩いたり好き放題する子が。二人だと成立しないんだと思います。一人が休みだと動けないから。流石に三人組なら、最悪二人が同時に休まない限り動けますから。
そんな悪ガキに嫌がらせを受けることはまぁありましたが、それは大したことではないんです。一番ストレスだったのは、彼らは確かに悪いが、彼らをちゃんと注意できないお前達はもっと悪い!と日々先生に怒られていたことです。
六年生になると塾にも通いだしました。それまでずっと学校の成績はオール3だったのですが、六年生の一学期、算数のテストに関しては、全て95点以上でした。それで成績は今まで通り3。流石に母親が怒って二者懇談の時に、テスト用紙を全部持っていってクレームに行きました。返答は予想通りで、授業中の発言が少ないから。そういわれたからと言って私はひねくれてますから発言はしませんでしたし、テストの点数もやや下がり気味でした。しかし、二学期、三学期の算数の成績は4。
結局小学校の成績なんてのは、親と先生の繋がりで決まるんだなーと思いました。
息子が小学校に入ったら一緒にリビングで勉強するつもりなんですが、学校のテスト勉強はさせるつもりはありません。テストで間違えた所がなぜ間違えたかが理解できてればいいです。漢字や歴史の暗記問題なんかも、あーそういえばそんなのだったなー程度に覚えてくれればいいです。中学受験がなければ、小学校なんてそんなもんでいいんではないかと。
五年生になる頃に少年野球に復帰するのですが、半年のブランクは大きく、加えて回りとの差も出てました。それまでは楽しく野球をしてただけですけど、この頃になるとレギュラー争いが始まるんですね。正直、試合には出たくなかったです。口が裂けてもそんなことは言えなかったですけどね。まぁほぼベンチだったんですけど、六年生になると何度かスタメンに選んでもらえました。なんとかチームに迷惑をかけないようにしようといっぱいいっぱいでした。
そんな私も、一回だけ試合でホームランを打ったことがあるんです。その日は母親は見に来れてなかったんですけど、その日の夜にトンテキを焼いてくれました。あの味は忘れられません。
六年生最後の練習の日、六年生最後のノックがありました。その時はライトを守っていたんですけど、一人のコーチが私のそばに寄ってきて言いました。『最後ぐらいお前の肩を見せつけてやれ。』と。レフト、センターともに、ノッカーの監督が打ち上げたボールをキャッチして、内野手に中継してバックホームして切り上げた後でした。お前は内野手を使わずにダイレクトでバックホームしろと。見せつけてやれと。
コーチの言うとおりやってみたのですが、どうも距離が届かず、ファーストの頭を越えることが出来ずに、結果的に普通に中継ありのバックホームになりました。内野側とホーム側の人間は私とコーチの会話内容は聞こえていないので、普通に拍手してお疲れさーん、帰ってこーいて感じになってました。今思えば、私があそこで『もういっちょー!』とか言ってれば良かったんでしょうけど、そのまま帰ってしまいました。コーチには、お前はそんなもんやないやろー、見せてやれってー、ほんまにー。と言われました。どうせ使わない肩なんだから、最後ぐらい壊れるぐらい振り切ったら良かったです。
五年生の頃に出来た親友は、六年生の頃にお互い別の仲の良い友達が出来て、最初の頃に比べたらあまり遊ばなくなっていましたが、小学校卒業と同時に彼が転校してしまうこともあり、久しぶりに最後に二人で遊ぼうということになりました。ちょうど少年野球も終わっていて休日だった日曜日に私の家で遊んでいたのですが、家の前に親友が自転車を停めていたため、それを見つけた少年野球仲間が家に乱入してくるという事態になりまして。結局客間でみんなで遊ぶことに。親友には悪いことしましたね。野球仲間からしたら親友が邪魔みたいな感じだったんですよ。僕としても親友としても最後ぐらい二人でゲームしたかったんですけど。そんな残念な終わり方でしたが、親友の姉と私の姉も親友ってくらい仲が良く、卒業後も時々姉同士がファックスとかしてたので、それに便乗して連絡は取り合ってました。ファックスって時代感じますね。すぐに姉も私も連絡とらなくなってしまいましたが。
相変わらず四年生の頃までは人に物を聞くってことがまともに出来なかったんですが、高学年になるとしっかりと聞けるようになりました。おそらく六年生の頃が人生で一番しっかりしてたかなー。
一年生の頃から毎年親子行事がありました。はっきりとは覚えていないけど、母親が毎回参加してくれていました。大玉転がしは覚えてるなー、アラフォーだったと思いますがよくやってくれた。息子の親子行事には極力私が参加したい。
二年生の頃から始めたそろばんですが、三級を取ったら十分と言われていました。私の姉も二人とも三級取ってましたし。あとから入ってきた同級生もさっさと三級を取って辞めていきました。そんな私はどうだったかと言うと、六年生にして四級。確か六年生の冬まで四級だったんですよ。で、最後だから三級を受けなさいと先生に言われ、そこから必死に三級の問題を解き始めました。計算の桁数が二桁ぐらい変わるのかな。ほんでもって試験会場もいつもの教室ではなく別の場所。休みの日も必死で?いや必死ではなかったけどルーチンのように三級の問題を解いていました。そしていよいよ迎えた本番。慣れない会場で緊張しましたが、なんとかやりきった。そして数日後のそろばん教室。帰りの挨拶の時に試験の合格者を口頭で先生が発表するのですが、まさかの私の名前が。みんなびっくり私もびっくり。やったら出来るやないか!となぜか先生に怒られました。
そんなこんなで六年生の頃はいろいろと事が上手く進んでいました。唯一残念だったのは六年生の二月に祖父が亡くなってしまったことですかね。滅多に休まない学校を数日休んでしまいました。卒業間際ってなんか楽しいんですけどね。


小学校六年間こんなもんではないでしょうけど、次行きます。


1999〜2001年
13〜15歳
中学生。正直この三年間は今思ってもなくていいです。無駄でしかなかった。
まず一年生、入部するクラブを決めるのですが、野球は一番に選択肢から外しました。野球をするのは好きですが、やっぱり試合のプレッシャーが嫌だったのとそもそも才能もなかったので。他にバレーとかバスケとか選択肢はありましたが、結局選んだのは卓球。姉二人がやっていたのもあって、卓球を選んでしまいました。
少年野球をやってた同級生は野球にいくかバレーにいくかといった感じだったんですが、私は卓球。なんでお前卓球なんてやるんだよ!と多くの批判を浴びました。
卓球が悪い訳じゃないんですよ。そのクラブの環境が悪いんです。ほとんど練習しないっていう。それは私もどんどん廃れていきますよね。
一年生の頃、幼稚園からの同級生と同じクラスになり、家が近所だったこともあってよく遊ぶようになりました。少年野球がなくなって土日が完全に休みになったので、毎週休みの日は遊んでたかなぁ。
二年生になるとクラスが代わり、中2病の始まりです。毎週遊んでいた友達とクラスが離れ、それほど仲の良い友達もおらず、ガラの悪い友達とつるんだり、授業中にゲームしたり、部活もほぼ真面目にはやらず、成績もだだ下がり。
流石にこの醜態に親も黙っておらず、家庭教師をつけられました。この家庭教師、高校生になっても付くことになるんですが、正直高校時代は必要なかったです。それこそお金の無駄でした。ただ中学二年生の後半に付いてくれたことだけは感謝しています。このおかげでやっと自分の勉強方法みたいなものが出来上がったので。
三年生になると成績はうなぎ登りでした。ほぼ4と5でした。体育2を除いては。なぜ三年生のこの時期になって初めて2を付けられたのか、未だに謎ではありますが、京都の公立高校入試では、副教科の内申点は非常に大きく響いてきます。
部活動は普通に卓球を続けてて普通に部長をやっていました。人数も少なく私の代で終わってしまいましたね。特に試合でも良い結果は残していません。
三年生のクラス替えで、また私はそれほど仲の良い友達はいませんでした。とはいえ少年野球やっていたのもあって、ちょっと席移動してお昼ご飯一緒に食べるぐらいの友達はいました。別に自分の席で食べても良いんですけどね。そんな中、ひとりぼっちでご飯食べてる男がいました。二年生の頃は友達いたけど、その友達を他にとられた感じになってたのかな、よく分からんけど。まぁ彼は後の大親友になるんですけどね。最初は申し訳ない感じで、私がいたグループに、一緒に食べても良い?と入ってきて最初は無言で食べてたんですけど、なんやかんやでむっちゃ仲良くなったんですよ。もうお前らそっちで二人で飯食えよ!って言われるぐらい。
三年生の一年間は彼のおかげで本当に楽しかった。そういう意味では中学三年間が無駄だったということはないですね。今でもちょくちょく会ってる唯一の親友ですかね、まぁ親友なんてものは存在しないってのが私の持論ではあるんですが。
そしていよいよ高校受験です。成績が急上昇したので、担任からは普通科の進学コースを薦められ、受験することに。まぁでも、体育が2の時点で厳しかったんですよ。後から聞いた話ですが、同じコースを受験した高校の友人は、入試で最高得点を叩き出したにも関わらず、音楽が1という理由で不合格だったらしい。それほどに副教科は重要視されていた。でまぁ結果は不合格で普通科の普通のコースに入学しました。


2002〜2004年
16〜18歳
うちの地元は東と西に公立高校があって、私は西の普通科の普通のコースに入りました。
中学生の大部分は東の方に進学しています。西を選んだ理由としては、西の方がレベルが高いと言われていたのと、東は体育で水泳があるけど西にはなかったから。それぐらいの理由です。でうちの中学は規模が小さい方で、高校に入ってしまえば少数派です。幼稚園からのほぼエスカレーター式で中学時代まで友達作りに苦労しなかったせいもあり、急に友達を作ることは出来ませんでした。
親友は勉強が全くできなかったのと、また別の夢があったので、西でも東でもない高校に進学しました。
通学は自転車で40分くらいかな、中学校一年生の頃によく遊んでいた友人と一緒に通いました。その友人もクラスは別だったので、結局学校では友達はいなかったです。友達なんてちょっとしたきっかけで出来るんですけどね。進学コースを目指していたこともあって私はかなり尖っていました。お前らとは違う。お前らに流されてはいけない。そんな感じでほぼ全教科クラスではトップで、成績も10段階でほとんどが9と10でした。
二年生になる時に、普通のコースの中でもクラス分けがされます。四年制国公立大学を目指すのは進学コースのクラスですが、普通のコースでも一クラスだけ同等に進学コースを目指せるコースがあり、当然そこに入りました。
二年生になっても相変わらず友達はいませんでした。4月には親に初めての携帯電話を買ってもらい、中学の友達とはアドレス交換なりしますが、まぁその程度で。
この頃からおしりから出血が始まるんですわ。肛門科に親に連れていってもらった結果、診断は痔ろう。手術が必要とのことで、夏まで女性用のナプキンをボクサーパンツにつけて誤魔化して、夏休みにこっそり手術しました。
夏休み明けかな、文化祭の準備をするなかで、友達がどんどん出来ました。小学四年生で転校してしまった少年野球友達が同じクラスにいまして、彼が最初に声をかけてくれたのがきっかけですね。
こうやって振り返ってみると、野球やってたおかげでいろんな事が有利に動いてくれてるなーって思います。そういう意味でも是非息子には少年野球をやらせたい。もちろん本人の意思は尊重しますが、きっと後々の人生で役に立つとは思います。
三年生になりいよいよ大学受験が迫ってきますが、友達が出来るとどうも遊んでしまいます。休日に遊ぶようなことはしなかったのですが、確実に一年生の時に比べるとダラケていました。
センター試験一週間前、高熱と腹痛に教われ学校を休んでいました。試験までになんとか体調は整え直したものの、目標の点数が取れず、塾の帰りにもうあかんわと泣き言を漏らしました。その時、母親に怒鳴られました。まだ終わってへんやろ!みたいな。これまで人生で母親には何百回と怒鳴られましたが、おそらくこの時が最後です。もう私も大人ですし、病気になってからは気を使って全く怒ってくれないです。今後も怒鳴られることはないと思います。母の怒鳴り声で私は成長したようなもんなので悲しいですけどね。
母親は受験日には仕事の休みを取って全ての受験会場に付いてきてくれました。なんか厳しいのか甘いのか分からないですね。国立の二次試験の日に関しては、一人で行っていたらホテルで死んでいたんじゃないかってぐらい体調崩していたので、本当に助かりました。
結局国立は落ちてしまい、関東の私立大学に通うことになるのですが、おめでとう、すごいやん!と母親は握手してくれました。まぁ確かに偏差値はそこそこでしたけど、経済的負担はかなり大きかった。だからこそ両親には良い家をプレゼントして良い暮らしをさせてあげたいのですが。


2005〜2008年
19〜22歳
2005年、私にとっては絶望の年で忘れられない年です。しかし逆にもし戻れるなら私は2005年に戻りたいです。高校を卒業した年って、無限の可能性に満ち溢れていました。誰でも。そらある程度の夢をもってみんな進学しているとは思いますが、あの時代、インターネットが普及し始めていた頃です。学業と平行して何かしらいろんな事が出来たんじゃないかなーと思います。
病気のことは以前日記で詳しくかいたので、簡単に。
2005年は常に発熱、腹痛に悩まされていました。風邪薬と絶食で治るので胃腸風邪だと信じて一年。2006年1月にクローン病と診断されました。
2006〜2008年はとにかく真面目に勉強していました。何とかして無事に就職しようと思っていたので。
ちゃんと就職出来た今だから言えることですが、この頃もっと遊んでおけば良かったです。恋愛も。
誰にも言ってないことですが、高校生の時に好きな子がいたんです。隣のクラスで名前もよく知らない。性格も知らない。時々目が合う。見た目がすごく可愛い。そんな子。もちろん高校生活で彼女と会話を交わすことはなかったです。それが、大学一年の夏休み、たまたま母親と行った隣町のスーパーマーケットでのこと。母がレジにかかっている間、レジの先の買い物袋に買ったものを詰める場所?で私はボーッとしてました。ボーッと。すると別のレジの店員の女の子が、客もいないのにレジを叩いてあたふたしているのが目に入りました。なんだあの子?と思って凝視したんですわ。じーっと。そこで名札が見えてようやく彼女だということに気付き、私は照れて目をそらすんですが、彼女も顔を赤くして更にあたふたしてレジを叩きまくるという。そんな出来事がありました。
で?って話ですよね。あれだけ可愛かったら彼氏いるだろーと思って何もしなかったです。大学一年の夏休みは毎日のように昔の野球仲間とつるんでいて、女おらんのか?紹介したろか?なんて話題は毎日のように出ていたので、好きな子が働いてて告白しに行きたいから付いてきてくれ!って私が言えばすぐに車出してくれるような友人だったんですけどね。何もしなかった上に、病気になってからほぼ地元には帰らなくなりました。そのくせに心の片隅で、もしかしたら将来彼女と何かあるんじゃないだろうか?っていう期待が邪魔をして大学時代は恋愛はなかったです。大学時代も可愛い子いっぱいいたんですけどね、本当に。
でもおそらく大学時代誰かと恋愛していたら、そのまま結婚していたと思います。物に執着心があるのと同じ、と言ったら失礼ですが、私が捨てられることがなければ、私からは捨てられない性格なので、相手がよっぽどの事をしてくれなければ別れられなかっただろうなーと、嫁に出会ってから思うんですよ。まぁ今だから言えるどーでもいい話です。


2009年〜
23歳〜
大学卒業後、京都で半年働いて、そのあとはずっと今の職場です。この辺からはずっと日記書いてた時期なのでほぼ割愛します。ちゃんと書いてなかった嫁との出会いとかを書こうかと。
嫁に出会ったのは2010年12月(24歳)の時です。嫁の方が年上で仕事の経験も上、でも私の後輩としてうちの職場に転職してきました。うちでのルールを指導する係りに私が選ばれて教えていました。元々病院実習でも一緒に回った女の子とはすぐに打ち解けて恋愛の相談なんかもしてたので、そんな感じで嫁とはすぐに仲良くなったんです。当時は全く恋愛対象ではなかったんですけど、ある時、嫁がバッサリ髪を切ってショーットカットになって出勤してきました。それがもの凄く可愛かったんですよ。今でもあの時の髪型に戻してくれとお願いするのですが、和歌山の小さな美容室だったそうでもう無理らしい。その時から、イヤらしい話ですが、嫁の胸から尻まで全く目をやっていなかった場所に目がいくようになり、まぁ24歳童貞ですからね。嫁を性的対象としてしか見なくなりました。とにかくこいつとSEXがしたくて仕方がない。くそ真面目で有名な私が毎日そんなことを思いながら仕事をしておりました。
で、結局私から告白をするわけですが、2011年の5月、出会って半年で付き合い始めました。恋とは一種の精神疾患だとかなんかドラマで聞いたことがありますが、正にその通りでした。最初の数ヵ月は熱かったですね。最初はこちらの想いの方が強かったのですが、付き合い出すと嫁の方がウザいぐらいに熱くなり、毎日のようにうちに来て朝帰り。喧嘩も多かったですが、ほぼうちに嫁が住み着いていました。
付き合い出した時、嫁は28歳。流石にダラダラはしたくないから二年後にどうするか決めようと約束をしました。新しい出会いも私の年齢からしたらあるわけですが、これほど私に愛情を注いでくれる人に出会える保証はなく、結婚を決めました。素直に、お前がいいんだ!みたいなこと言えないんかいって感じですが、言えなかったですねー。そういうところも含めて私なので。あはは。
そんなわけで2014年の8月に入籍、12月に挙式を行いました。
そして2016年11月、待望の長男が産まれまして、今一歳四ヶ月、歩き回っております。
2010年に入院した時は、週末に母親が来てくれただけで、毎日一人でさみしく寝てました。
今は、毎晩嫁が息子を連れてお見舞いに来てくれます。家帰ってからすることも多いのに、私が寂しいだろうからと、わざわざ車で面会時間ギリギリに来てくれます。
嫁と結婚して良かったなぁーとしみじみ感じております。


昔の私にそっくりな息子、本当に可愛いです。
昔の自分を思い出す上で、やって欲しかったなーと思えるようなことは積極的にやっていこうと思います。

今回過去を書き綴っていて、私の父親の話が全く出てこなかったと思います。それほどに私の中で父親という存在は薄いです。もちろん、父親が毎日遅くまで働いていてくれたからこそ、私立大学にも行かせてもらえたので、父親には本当に感謝しています。でも欲をいうならば、もっと幼少期に関わって欲しかった。野球を見に来てくれたことは数えるぐらいしかないんじゃないかな。
父親が本当に親身になってくれたのは病気になってからです。そもそも大学生になって実家を離れた時から、寂しい思いもあったんでしょうか、口には出さないですが、母親以上に最近では私のことを心配してくれています。


入院すると両親や嫁への感謝の気持ちで胸がいっぱいになるよ。っていうのが結論になりますかね。

1日でこんだけ書いてしまいました。相当暇だとお分かりかと思います。また寝てる間にいろいろ思い出すので追記していきます。

日記

 今日でここに日記を書き始めて10年目です。
この日ぐらいはリアルタイムに書こうと思っていましたが、今書いているのは2ヶ月後の6月1日です。
タイトルの“日記”の隣に時刻が表示されていない記事は基本的に後日書いています。ここ2、3年はほとんどそうかも。


最近嫁の母が通勤用のカバンと財布を買ってくれました。
どちらも10年以上使っていましたが、個人的にはまだまだ使える。
あ、その使ってたやつの写真貼りますね、またあとで(笑)


写真


こういうあとで貼ろう、と思って放置してる記事も多いですわ、たぶん。
いやしかし10年ってあっという間。いろんな事があったわけですけど、何も変わらない。内面的な話。


そもそもここを書き始めた理由は、“生きた証拠を残す”ってニュアンスでしたけど、まぁ正確には自己顕示欲ですね。俺はすごいんだぞと。

難病認定されてハンデを負った上で勉強も就活も頑張った。
そら上には上がいっぱいいますが、健常者と比較したら俺はすごいんだぞと、そういうのが言いたいだけで始めた感じでしたね〜。

親戚や同世代と比べても自分はかなり節制して生きてきたと思う。私立大学に行った時点でそれはまぁ親への負担は計り知れないもんでしたけど。。。
まぁ仮に息子がどうしても私立大学に行きたいって言ったら入学させてあげられるよう、人並みに節制して頑張って稼いでおります。


結婚して子供が出来たら、日記書くことが少なくなるかなーと書いたことが昔ありましたが、今まさにそんな感じかなぁ。


というわけで、今日でこんなふうに長文だらだらと書くのは終わりにしようか、どうしたものか。
なんか面白い事があったら、あーこれ忘れんうちに書いときたい!ってこと結構あるんですよ。しかし大体それも忙しくて書けてないんですけど。


まぁいいや、10年間お疲れ様でした(笑)

日記

 レミケード50回目。って、もう50回も打ってんのか、1回50万やとしたら2500万。家買えるで。
前回同様にレミケード前の2週間ゼンタコート服用。
特に何も変わらず。


ロイケリンよりもゼンタコートの方が良いなら、ロイケリン辞めて毎日ゼンタコートにした方が良いのか主治医に聞いたところ、毎日服用にチャレンジしてる患者が数名いるそうですが、全員6週目ぐらいからムーンフェイスになっているそう。90%が肝臓で代謝されるステロイド系の薬とはいえ、残りの10%が体内を循環しちゃうんで、毎日服用してたら普通にプレドニン投与してるみたいになってしまうらしい。


なんか4か月前に毎日投与させてくれって主治医に懇願されてた気がするけど、私やらなくて良かったわほんと。

日記

 昨日は祖父の33回忌でした。○○回忌っていうのは33で終わりだそうです。そらずーっと続いてたらお寺さん大儲けですしね。


 うちの家は私が12代目。たぶん。
おそらく9代目ぐらいから舞鶴に来て今のお寺の檀家みたいな感じです。うちの親はこういう法事とかしっかりやってて、お布施もきちんとお渡ししてます。家族全員般若心経が読めるっていうのもすごいと毎回褒められる。今回はうちの息子(13代目)も参加しました。こうやって代が続いていくのは、良い事ですねー。と住職。


まぁしかし般若心経も家族みんなが毎日あげていたから自然と憶えたけど、仏壇も家にないし、今は法事の時しかあげないので、息子は憶えないと思います。
私は宗教に関心が無いというわけじゃないですけど、宗教はお金の問題じゃないと思うので、あんまりしっかりやる自信無いです。
すみません。先代の方々。

日記

 昨日今日と車で舞鶴に帰ってました。
父は退院したてでそんなに動けず。母は最近仕事が忙しくて家に帰るのが日付変わってから。そんな状態だと聞いていたので帰ってみたらやっぱり家がゴミ屋敷と化してました。
ということで姉を呼びつけて一緒に大掃除したって感じです。あ、再来週法事なんで、それで。


前もって帰るなんて連絡したら無理して親が掃除しだすんで、アポなしで帰りました。
アポなしでも、孫の顔見ると急に元気になるもんですね、じいちゃんばあちゃんは単純です。

日記

 今日はいつもの美容室で普通に髪切りに行ったのですが、いつも切ってくれている店長さんが3月で退職されるそうで、今日がファイナルカットでした。地元で開業するらしいです。


大学時代から自分で切ってて、6年前にふと家の近くに、“男の美容室”ってとこを見つけて通い始めました。
もう結構通ってるな。
その店長さんも去年最初の子供が生まれて、話が合ってたんですが残念ですねー。お店自体はまだ続くそうなので、まだ通うとは思います。

日記

 先週、母が手術前の父に付きっきりで、仕事も忙しかったせいか体調を崩していて、今週初めに病院でインフルエンザと診断されてました。


なんか嫌な予感するなーと思っていると案の定倦怠感が。。。
しかし熱は出てなかったので風邪と信じて1日有休取って休みましたが、倦怠感とれず。
腸が悪化してるのか風邪なのか分からなくなったので、仕方なく昨日外来へ。


すると、今年は医局で熱出てないけどインフルエンザになった医者がいたから、念のため検査させてね。とインフルエンザの検査をされました。


まぁその結果これですわ。



そんなわけで30歳の誕生日は家族と隔離されて、一人さみしく寝て過ごしました。


この後、嫁にも少し倦怠感が出て、病院で検査したら、インフルエンザ弱陽性みたいなわけわからん診断されて、自力で治してくださいって感じで治してました。ほんでもって息子の方はずっとピンピンしてました。母乳の力なのか、強い子ですわ。